2013年5月24日金曜日

神霊と真理で生まれ変わるのは、 "私"から始めなければなりません。天地人真の父母様のみ言


「神霊と真理で生まれ変わるのは、
"私"から始めなければなりません。
心と体が一つになるという事は、
感謝の心が必要という事です。
"私"がみ旨の道を行くことに感謝、
健康で歩む事ができることに感謝の心が必要です。
その心がなければ成長する事ができません。
それが神様の愛です」
真のお母様のみ言

家庭の原動力は真の愛です。
私よりも神様を、そして対象を命のように愛する純枠で美しい愛、これが真の愛です。
神様はこの宇宙に、真の愛の力よりも大きい力は創造されませんでした。
真の愛は、神様の愛です。
(219-118,1991.8.28)
文鮮明先生のみ言・真の神様より

2013年5月20日月曜日

み言 真の父母より 一、真の父母とは


一、真の父母とは
一)真の父母という言葉の意味
我々統一教会員たちが平素使う言葉のうち、「真の父母」という言葉があります。その言葉は簡単な言葉ですが、その内容は実に驚くべきことです。歴史以来、どんな図書館にもありません。真の父母という言葉は、最も易しい言葉ですが、その言葉は我々だけが持っている言葉であり、我々だけが使う言葉です。
皆さん、考えてみなさい。キリスト教が二千年の歴史を経てきながら、人類の先祖が堕落したとしたら堕落した父母は偽りの父母、悪い父母で、堕落しない父母は善の父母であり、真の父母ということがいっぺんに分かるのに、それを今まで発表できなかったのです。それは、発表できる、この時を待ってきたのです。
過去の歴史時代に、真の父母ということを考えた人がいるかもしれませんが、その背後がどうだということまでは解く道理がなかったのです。統一教会の膨大な原理の全体の内容を備えずしては、それを確実に解けないので、誰も簡単に真の父母という言葉を言うことができませんでした。原理のみ言、あるいは、我々が知っている統一教会の歴史観、また、人類の本然的な根源に対する事実を明らかにしたということは、驚くべき事実です。
真の父母という言葉を確実に知ることによって、何が分かるでしょうか? 我々人類の始祖の堕落が不倫な関係によってなされ、神様と関係ない、創造理想を立てようとした真なる父母と関係ない、血統的な因縁を残したということです。すなわち、過った血筋を受け継ぐようになったということです。
それゆえ、真の父母という言葉は、人類始祖から歴史的にすべての人間が過った血統の中に生きることを清算してしまい、神様を中心として、新しい本然的な根を中心とした、愛と生命と血統がつながるという意味を中心として言う言葉です。これは本当に驚くべき言葉です。(二〇一�六〇)
神様に感謝します。
ありがとうございます。
 

2013年5月18日土曜日

真の神様 第一章 神様の本体 二 無形の神様は体が必要



真の神様
第一章 神様の本体

二 無形の神様は体が必要

 1.体をもつためにアダムとエバを創造

神様はどうしてアダムとエバのような形を必要とするのでしょうか。万物は形状的な形をもっていますが、神様は無形の存在です。神様はどのような形ももっていません。大きいと言えば無限大です。小さいと言えば無限に小さい方です。そのような方がどんな標準的な形を形成し、形体を現したとしても実体をもった万物はその神様に直接主管されません。ですから実体をもった被造世界においては、実体をもった主人的人格と形を備えた存在がなければならないのです。神様は地上万物の主管だけではなく、無限な霊界も主管しなければなりません。天使長や様々な形体をもった実体、そして無形の実体までも主管するにはその中心的タイプ、すなわち形状が必要です。それで神様はアダムを創造されたのです。
            *
アダムを中心に霊肉両面の世界、無形実体世界と有形実体世界を主管されようとするのが神様の人間創造の目的です。したがって一つの人格的実体と関係を結ばなければならないので、アダム完成とともに神様の形状完成、すなわち形が完成するのです。神様はアダムを造られる時、彼の形態、人相、人格などが無形世界の中心にいらっしゃる神様のような姿にならなければならない、という考えをもってアダムを造り出されたのです。形がなければ形の世界を主管できないのです。
            *
神様はなぜアダムとエバを造られたのでしょうか。神様は無形でいらっしゃる方なので、実体の形状をもった父母になれなければ形状の子女を愛することができないので、体を着るためなのです。アダムとエバの創造目的は第一に、アダムの体を無形の神様が着ることであり、二番目は、体を着ることによって震動的な衝撃が来るようにするためです。言葉だけでは駄目なのです。この衝動的な刺激に喜びを感じるのです。三つ目は、神様は中心軸をもった垂直の父で面積がないので、面をもとうということです。
            *
霊界に行っても神様を見ることができません。神様は見えないのです。皆さん、力が見えるでしょうか、力が見えますか。神様はエネルギーの本体なので、霊界に行っても見ることができません。体がないのです。ですから実体世界を指導して主管するためには実体をもたなければならないのです。神様はどのような神様ですか。アダムが堕落しないで完成して地上で暮らし、天上に行くようになれば、アダムの形状をもった神様になるのです。それで見えない神様と見えるアダムが一つになるのです。そのようになればアダムが「ははは」と笑うのは神様が「ははは」と笑うことになるので、それはすなわち宇宙が「ははは」と笑うことだというのです。何のことか分かりましたか。
            *
無形の神としていらっしゃる神様では、この宇宙を相手に刺激を感じることができないのです。心自体だけをもってしては、どんなに刺激しても感動しないのです。無形では、同じなので刺激が来ないのです。これが互いに相反するもの、熱いお湯と冷水が合わされば爆発するでしょう。そのような刺激が必要だというのです。
            *
神様は霊界でも無形です。形がありません。それで姿をもった人間の父母になるためには、姿をもたなければ中心になることができないのです。
            *
神様の最後の創造目的は体をもつことです。実体世界を主管するためには無形の神様では駄目なので万民の父母として体をもって現れなければならないのです。感覚器官をもって刺激を感じることができる主体と対象として立つためには、体を着なければなりません。
            *
実体世界を造られた神様が無形であっては、実体世界を支配することはできません。それで体が必要なのです。(アダム・エバが)創造された目的は、神様も実体をもって実体の父母になるためです。その実体がアダム、エバです。アダム、エバが完成したならば神様は、アダム、エバの心の位置に入って神様を中心とした王権を成すのです。王権が成立するとともに父母権が成立するのです。父母権とともに本然のアダムは長子権をもつのです。今日、次子権は必要ないのです。アダム自体が長子中の長子で、エバも長女中の長女でしょう。そのようになれば二人の息子、娘は、人類の父母中の父母になるのです。父母であると同時に、永遠な世界の王になるのです。
            *
なぜ神様が人に体をもたせたのでしょうか。体のない神様がいたならどれほどいいかというのです。神様が一人でいればいいのに、問題となるような体をなぜ造られたのかというのです。神様自身は無形の神です。無形の神様が体をもった人間の先祖になることができないのです。体をもった息子、娘に対そうとするので、体をもった神様の立場へ出ていかなければならないのです。それでアダムの体が神様の体のようになるのです。しかし神様は、アダムの心のような位置より一層次元が高い世界の段階に上がっていくのです。何のことか、分かりましたか。
            *
結局、神様は無形で形体が見えないので、形体を得て現れるのです。また、形体をもっている人間と万物を主管するために神様がアダムとエバの形体を着て現れます。そのようになればアダムとエバは神様と一体となるので、神様はアダムとエバの心のような方になるのです。アダムとエバの心の位置に神様が臨在して一つになったので、結局はアダムの内的な主人、内的なアダムのような方が神様だということを知らなければなりません。
            *
なぜ人を創造したのでしょうか。この宇宙は実体があるので、実体の主人であるアダムとエバを中心として管理主導することができる立場に立つためです。神様は霊界で無形でいらっしゃるので支配することができません。それで実体の仮面をかぶり、実体の体をもつことによって、あの世で、地球で生産されてくる自分の息子、娘となる子孫を実体をもって支配することができる王になるために人を造ったのです。その王の顔がアダムの顔です。王を造ったので、王妃が必要なのです。王妃とは誰ですか。エバが王妃にならなければならないのです。アダムとエバは地上の祖先であると同時に、天上世界の祖先になるのです。


  2.アダムは宗の祖先、有形の神様

神様は第一に、体を着るためにアダムとエバを創造され、第二に、愛を完成するために創造されたのです。このようなアダム、エバが完成し二人が一つとなることができる愛の実体になれば神様が臨在し、人類の前に愛の父母となるのです。そうして、神様の形状的実体の父母になったアダムとエバが実体の子女を繁殖することによって理想世界ができるのです。そのようになれば、人間を通じて霊界と地上世界が連結されるのです。その目的もあって人間を造られたのです。それで神様が愛を中心としてアダムとエバに臨在されることによって人類の真の父母、実体の父母としていらっしゃってから、アダムとエバがあの世へ行けば、霊界でもアダムとエバの形状で体をもって父母の位置に顕現することができるのです。
            *
実体をかぶった、神様の体で造ったアダムが、人間の先祖になるのです。言い換えれば、アダムは実体の神様です。無形の神様が実体の世界を主管するためには実体の体がなければなりません。それがあってこそ見たり聞いたりできるので、神様が実体の体として造られたのがアダムだというのです。それでは、エバとは誰ですか。エバはアダムの妻です。実体の妻です。それゆえアダムが実体をもった神様ならば、エバは実体をもった神様の妻です。神聖な神様が妻を得るというので驚くかもしれませんが、アダムは実体をもった神様の体です。エバは実体をもった神様の妻として創造されたのです。
            *
神様がアダムとエバを必要とするのには二つの目的があります。一つは、愛の理想を成就しようとすることです。もう一つは、無形の神様が形状をもって現れるためなのです。ですから、無形の神様が有形の形状をもって有形世界と関係を結ぶことができるその基礎、その核心がアダムとエバなのです。
            *
天の国に無形の神様が一人でいて何をしますか。見えない神様では何の意味もないのです。人間の父母になるには、体をもって感じることができなければならないのです。このような人間と同じ体を着なければならないので、体をもつために仕方なくアダムとエバを二重的存在として造らざるを得なかったということを知らなければなりません。
            *
体をもった父になることで、見えない無形と有形が一つになるのです。それは宇宙が一つになることを象徴します。ですから神様の形状に似たそのような体をもつことができる姿として、アダムとエバを造ったのです。そうしてアダムとエバを天の国の王宮に、王座へ上がらせ、その王と王妃の心の中に神様がいらっしゃり地上世界と無形世界を統治するのです。神様の王国を造るのです。王国は愛の王国だというのです。愛の王国。愛を中心としてのみ霊と肉が合わさるようになっているのであって、他のものをもってしては合わさることができないのです。
            *
エバは未来において、神様の王女です。王女であると同時に、将来の神様の相対でした。エバを愛の相対にしようとしたのです。神様の夫人となるのです。なぜそうなのかと言えば、愛を分かち合うためには体が必要です。体が必要なのです。あの世へ行ってみれば神様は無形です。空中で太陽のような光が二十四時間いつも浮かんでいるのです。空中から神様がみな無形で管理しているのです。その無形の神様が、実体をもった人間の愛の対象ではむなしいのです。ですからアダムとエバは無形の神様の愛の理想の絶対作品です。パートナーとして体をもったアダムとエバを造ったのです。神様は誰の姿かと言えば、アダムとエバの姿です。一つは内的な父であり、一つは外的な父なのです。一つは内的な父母であり、一つは外的な父母だというのです。
            *
神様は愛を共にするために天地を創造したのです。ですから男性と女性を、無形の神様が永遠の愛の実体として登場させるのです。愛の中心の実体として登場させるのが人類の善なる真の先祖、真の父母なのです。皆さんは真の父母をもてませんでした。しかし今日、統一教会には真の父母の教理があります。
            *
神様はアダム、エバをなぜ造ったのでしょうか。無形の神をもってしては実体世界を主管できないからです。無形の神をもってしては、見えない神をもってしては、この見える世界、創造物、宇宙世界を支配することができないのです。ですから神様は、愛を中心として体を着なければならないのです。それで創造をしたのです。愛を中心として体を着れば、内外共に刺激が起こるのです。刺激が起こるのです。
            *
無形の神様は実体がないのでその形体を身代わりしたのが真の父母だというのです。真の父母は個人的な父母、家庭的な父母、氏族的な父母、民族的な父母、国家的な父母であり、霊界に行ってもこれからは真の父母の形状で神様が現れるのです。統一教会が偉大なのはそれです。レバレンド・ムーンが偉大なのは何かと言えば、レバレンド・ムーンの形状を神様が使うというのです。何の話か分かりますか。
            *
神様は、無形の神様なのです。無形の神様が、有形の神様として現れようというのです。有形の神様とは何ですか。堕落していない、私たちが言う真の父母です。
            *
究極的に神様は霊的で無形なので、人間は直接神様から教えを受けたり重生の体験をすることができません。それで神様は中心人物を立てて、人間が彼を通じて教えを受け重生を体験することができるようにされました。この方が正に有形、無形の真の父母です。
            *
神様がアダムとエバを造った目的はどこにあるのでしょうか。私たち人間の形状を見なさい。体をもっているのです。しかし無形の神様は体がありません。体を着なければ、体をもたずしては霊界世界や地上世界を治めることができないのです。それで神様がいらっしゃったとしても、神様が人間の父母として現れるためには体を着なければならないのですが、その体を着た代表が誰かと言えば、アダムとエバだというのです。堕落していないアダムとエバの体をもって現れるのです。そうすることでアダムとエバは人類の始祖であると同時に、天地を主宰する神様になるのです。実体をもった神様、すなわち永遠な無形世界の神様の形状を代わりに着て現れた立場で、父母の立場で世界を統治する責任がアダムとエバにあったのです。
            *
神様は、神様と人間が主体と対象として縦的な愛の関係を完成することだけを目標にされてはいませんでした。縦的な愛を完成し、アダムとエバの横的愛の結実をもたらそうとされたのです。その瞬間が正に、内的父母であられる神様が外的父母であるアダムとエバと完全一体を成すために臨在される、愛の理想の成就の瞬間です。無形の父母であられる神様が、アダムとエバの形状を使って有形世界に永存される父母になるのです。この時アダムとエバは、真の父母、真の先祖となるのです。


三 神様は人格的な神

 1.神様は知情意をもった人格神

今日、多くのキリスト教信者たちは、神様は唯一無二のお方であり、絶対的な方であり、創造主であり、至高至善の位置にいらっしゃるので、被造人間すなわち被造物と創造主は関係をもつことができないと考えます。被造物は俗なるものであり、創造主は絶対的で神聖な方であると見ます。しかし愛の概念を中心として見る時、至高至善の神様であり、どんなに低俗な被造物だとしても愛の関係を結ぶためには人格的内容が同じでなければなりません。心情的内容が同じでなければなりません。人格を備えた人間と性稟が同じでなければならないのです。
            *
神様は、どんな神なのでしょうか。人格的な神です。知情意を合わせた内容をもった人格的な神です。そのような人格的な神が最高に願うのが愛なので、その愛の対象として私たち人間を造ったというのです。これは驚くべき事実です。
            *
神様は第一原因的存在ですが、人間をどのように造ったのでしょうか。神様と同じように造ったというのです。神様と同じように造るのに、神様の形状をかたどって、形状どおりに造りました。その言葉は何を意味するかと言えば、私が父に似ると同時に父は誰に似ましたか。私に似たというのです。それで答えになります。ですから神様を模索してみるとき、神様はどんな方ですか。私のような方だと言えば、さっと入ってくるのです。
            *
神様は誰に似たのでしょうか。神様の必要とするものが愛ならば、神様が愛するのに、神様に似たものを愛するでしょうか、神様と似ていない動物の子を愛するでしょうか。神様は喜ぶことができ、愛を分かち合うことができる相対的なものを必要とするのです。ですから人間がそのような相対ならば、人間を中心として見る時、神は人格的神でなければならないという結論が出てくるのです。そうでありながら、人間とはすべての要素が一〇〇パーセント和合しなければなりません。体と心の素性において、すべてが和合することができる神でなければなりません。ですから神様は、知情意をもった神でなければならないのです。
            *
神様がいらっしゃるのならば、人間とはどんな関係なのでしょうか。神様が人間と関係をもつためには、人格的神でなければならないのです。人格的神になるには、人間と同じでならなければならないのです。人間には心があり体があるのと同じように、このような素性がある人間を造られた神様も、人間と共に共同目的をもつことができるその本体ならば、人間に似なければならないというのです。二性性相という概念はここから出てくるのです。
            *
さあ、それでは、神様も人間のような人格をもっていますか。人と同じならば神様は男性でしょうか、女性でしょうか。それでは男性と同じようにぶら下がったものがあるでしょうか、ないでしょうか。神様は何性相と言いましたか。二性性相の主体なのですが、凹凸があるでしょうか、ないでしょうか。それを考えたことがありますか。
            *
神様が笑うでしょうか、笑わないでしょうか。神様が笑うのを見ましたか。神様も目があるでしょうか、鼻があるでしょうか、口があるでしょうか、耳があるでしょうか、体があるでしょうか。既成教会の信者たちをよく見てみると、でたらめです。神様に目があるのか、ということも知りません。目を本当に見たかと言えば、知らないのです。神様は誰に似ましたか。誰に似たのでしょうか。神様に似たと言うのです。そんな答えがどこにありますか。神様は誰に似たのですか。息子、娘に似たのです。それで神様は人格的神でなければなりません。人格的神として神様が、私に人格的最高の基準を要求するのです。人格的最高の基準とは何ですか。それはお金でもなく、権力でもなく、愛なのです。
            *
神様がいらっしゃるのならば、神様も人格的神でなければなりません。人と同じでなければなりません。人格的神だということは、知情意を備え、感情とか、またはみ旨を中心として目標とか、そのようなすべてのものが具体的でなければならないのです。
            *
神様は、知らないものがありません。知識の大王であられ、能力の大王であられ、全知全能であられるというのです。また、遍在されます。いらっしゃらない所がありません。この方が必要なものとは何ですか。ダイヤモンドですか。それはいつでもつくることができます。黄金ですか。宝石ですか。神様が必要なものは愛です。神様が一人でいて「ああ、愛があってとてもいい」と言い、「ひひひ」と言いますか。神様が必要なものとは何ですか。神様も人格的神ならば口があるでしょう。鼻もあり、目もあり、耳もあり、手足もあり、心もあり、心情もあるでしょう。人格的神ならばです。
            *
神様はいったいどんな方なのでしょうか。全知全能で、遍在され、ただ一言で世界を殺したり生かしたりする……。そのような神様を私たちは必要としません。私たちの本心は、どんな神様を願うでしょうか。「愛をもって、私のお母さん、お父さん以上の愛で愛さざるを得ない方なのだな。我が国に義なる国王がいるとすれば、義なる大統領がいるとすれば、その国王以上、その大統領以上の方なのだな」と、こんな方を願います。大統領は四年ごとに変わるので慌ただしくて、別に尊敬するほどでもありませんが……。
            *
今日、この世界を探し求めてこられた神様がいらっしゃるとしたら、その神様は知情意を備えた神様であることに違いありません。なぜでしょうか。人間がそうだからです。それは人類を中心とした知情意ではなく、天倫を中心とした知情意です。
            *
絶対的神様は、悲しむことができるでしょうか、できないでしょうか。全知全能なる神様は、悲しみの場を避けることができるでしょうか、できないでしょうか。その悲しみとかかわることができるでしょうか、できないでしょうか。これは深刻な問題です。私たちのような人間は、それをそのまま通り過ぎることはできません。絶対的である神様は絶対的に悲しみがあってはならないと言うならば、その神様は知情意をもった、喜怒哀楽の感情をもった人間の父となることはできないのです。論理的に矛盾します。ですから神様は、私たち人間よりももっと喜怒哀楽を感じることができる主体とならなければなりません。
            *
神様に対して正しく証した宗教団体はありません。仏教でも儒教でも、みな同じだというのです。神様と言えば、すぐにあぜんとして物が言えなくなります。彼らは人格的な神様、知情意を兼ね備えた神様を知らないのです。しかし統一教会は、神人一体を主張しているのです。それが偉大だというのです。
            *
統一教会が誇ることができるのは、神様をよく知っているということです。神様をはっきりと知っているというのです。神様は、知情意を備えた人格的神であると同時に、愛の主体だというのです。それを私たちははっきり知っています。その愛の神は、天情が中心なのです。天情の中心位置は行ったり来たりできないのです。


  2.神人一体の人格神を要求

神様も知情意をもった方であられるだけに、神様にも願いがあり、事情があり、心情があります。神様の願いは何で、神様の心情が何で、神様の事情とは何でしょうか。人間の事情よりも先に知らなければならないこととして、これさえ知ればいいのです。これさえ知れば、自然に人の願いが何であるか一遍に分かるのです。なぜでしょうか。人間の目的は神様であり、神様の目的は人間なので釣り合うのです。人間の事情をよく知って、願いをよく知って、心情をよく知る人は、神様の願い、神様の事情、神様の心情と通じることができるのです。
            *
愛を論じるならば、人格的神でなければなりません。情緒と、人格的に人と同じ素性をもった神でなければならないのですが、そのような神を提示した宗教はキリスト教以外にはないのです。神様を父と言ったのは偉大な発見だというのです。神様を父だと言ったのです。神様を父だと発見したという事実は今先生が話す、神様を内的父と外的父と見て実体に一致する愛によって統一的な権限をつくろうとするその基準、確実にこの基準までは発見できませんでしたが、そんな内容を暗々裡に解明することができる標題を掲げたという事実は驚くべきものです。そして唯一神を論じました。ですからこの宗教は世界的宗教であり、世界がこの宗教を中心としてまとまることができるというのです。この宗教によって世界が一つになることができる道を立てていくと、このように見るのです。
            *
今日、数多くの道がありますが、心情を通過することができる一つの道が歴史路程において現れませんでした。そのような道は必ず現れなければなりません。もしそれが現れないとするならば、神様はいらっしゃらないのです。人間が守らなければならない社会的倫理と道徳を教えてくれる道もあり、無限な霊界を教えてくれる道もありますが、倫理道徳と無形世界に対する教えを統合し、一つの心情の骨子の上にあげられた宗教がなければなりません。そんな宗教を探してみると、キリスト教だったというのです。キリスト教は心情の宗教です。人間は堕落することによって神様を失ってしまい、神様が私たちの父だということが分からなくなったのです。実体をもった真の父母を失いましたが、キリスト教はその真の父母を紹介することができる宗教です。
            *
哲学の最後の終着点は、神様を発見することです。その神様はどんな神でしょうか。絶対的な神、不変の神、唯一の神です。神様を発見することにおいて、その神様は私たち人間に必要な人格的神でなければなりません。私たち人間と関係を結ぶためには、私たち人間が考えるすべての内外を備え、意志を備え、理想を備えた人格的神でなければならないというのです。すべての面で通じることができる、情緒面やみ旨的な面や、または知識的面で私たち人間と通じることができる、完全に関係を結ぶことができる神様でなければ、どんなに神様がいると言っても私たちとは完全にかかわることができないのです。このように見るとき哲学は、人格的神にならなければならないという標題のもとであがめ尊んでこなかったのです。
            *
神様は誰に似ましたか。息子、娘に似ました。皆さんは誰ですか。神様の息子、娘です。神様に似たのです。そして神様は人格的な神です。神様がつまらない神様でいいでしょうか。キリスト教の驚くべきことは、人格、愛を中心として、知情意を中心として情緒的な人格的神を論じたということです。これが偉大です。そして唯一神を論じました。
            *
神様が人格的神ならば、神様に愛が必要でしょうか、必要ないでしょうか。私たち人間が神様の息子、娘として生まれ、神様に対して父だと言うなら、父が必要なように私も必要なのです。私も必要なように父も私が必要なのです。
            *
人格的な神がいるとすれば、その神を中心として何が連結されなければならないでしょうか。皆さん、神様と言えば高いところにいらっしゃると言うでしょう。そこに私の体が連結されるでしょうか。違います。心が連結されるのです。人格的な神であり第一原因なる存在の神様を中心として人生を生きていくのに、垂直のような心を中心として生きていくのであり、地球星が太陽系を中心として角度を合わせて軸を成して公転しながら一日、二日、三百六十五日と回るのと同じように、回りながら生きていくのです。このように見なければなりません。
            *
神様がいらっしゃるならば、神様の摂理を通して行かなければ、世界が未来に希望を残す何ものもないという、論理的な結果として結論を下すことになりました。ここにおいて統一教会が出てきて、神様がいるという実存性と、知情意の完成基準に立った人格的神を認定し、心情圏を中心とした理想世界を実現しようとしたのです。統一教会が初めて、神と人間の関係を確実にしたというのです。

感謝します。

ハッピー!ラッキー!元気!
で、幸せな、一日を
神様の祝福が、ありますように。
祈り。

2013年5月16日木曜日

真の神様 第一章 神様の本体 一神様は無形の主体であられる


 第一章 神様の本体

一 神様は無形の主体であられる

 1.無形でおられる神様

神様はどんな形態ももっていらっしゃいません。大きいと言えば無限大です。小さいと言えば無限に小さい方です。
            *
神様は果たしていらっしゃるのでしょうか。誰かがつねって「あっ」と叫ぶことよりも、おなかがすいて御飯を食べるよりも、もっと事実的に感じることができる神様がいるのでしょうか。問題はそこにあります。本当に神様がいらっしゃるとするならば、問題はすべて解決されます。
            *
人間には心があります。心は見えないので、ないようですが、あります。心はどこにあるのでしょうか。頭にあるのでしょうか、心臓の中にあるのでしょうか。心は、私の体の中のどこにでもあります。私の体の中にないところはありません。同じように神様がいらっしゃるならば、神様もこの世界が神様の体のようなものなので、この世界のどこにでもいらっしゃいます。
            *
神様を見ることはできません。皆さん、力が見えますか。神様はエネルギーの本体であるので、霊界に行っても見ることができません。
            *
知恵の神様、全知全能なる神様は、中央で思いどおりに振る舞うことができる無形な存在としていらっしゃいながら主管することが一番便利だと考えられたのです。神様は無形であるだけに、存在世界を思いどおりに突き抜けてきたとしても少しも支障を感じません。皆さんは体がありますが、神様が来て思いどおりに過ぎたとしても皆さんには分からないのです。神様がこくりこくりと居眠りしている皆さんの体を思いのままに踏んでいったとしても分からないのです。それでどんなに便利でしょう。ですから神様は考えた末に見えない神様としているのが一番便利だろうと思い、見えない神様になったという論理は妥当な論理です。
            *
私たちは空気が通っていることが分かりません。空気が通っているのにそれを感じられません。空気が通っているのを感じられないのに、神様が通っているのが分かるのかというのです。神様は無形の神としていらっしゃるのが最高の便利な方法です。そうしながら、この大きな宇宙をふろしきで包んでも余りある、そのような神様でなければならないのです。無形の神様ですが、神様の心はこの宇宙よりも大きいものを要求しているのです。
            *
皆さん! 愛をもっていますか。生命をもっていますか。皆さんの血統を継ぐことができる精子と卵子をみなもっているでしょう。良心ももっていますか。それでは愛を見たことがありますか。生命、血統、良心を見ましたか。その存在の現象は知っていますが、触ることも見ることもできないことを知らなければなりません。ただ心で感じてこそ知ることができるのです。同じ論理で神様がいるのかいないのかと言う時、または神様を見たのか見なかったのかと尋ねる時、見なかったと言うことができないのです。
            *
心の中に神様が入ってきて、いらっしゃれば心が分かります。神様が心の中に入ってくれば壁も突き通して見ることができ、じっと座って何千年前に死んだ聖人たちを運行させることもできます。永遠なる神様が心の中に入ってくればそのようにすることができます。永遠を時間ではとらえることはできませんが、永遠の中に時間があります。ですから神様は見えなくても心は分かるのです。
            *
神様はどのように愛するのかと言う時に、答えるのが大変でしょう。神様は無形の神なのでどこでも通ることができることを知らなければなりません。若奥様の目の中に入って心臓の中にも入って……。どこにでも行かないところがないのです。すべてに通じるのです。それでは、神様はどこに住んでいるのでしょうか。神様の住んでいる家は私たちの心の真ん中です。男性の心には神様の男性的心情がとどまり、女性の心には女性的心情が入って生きるというのです。
            *
全知全能なる神様、すべての天下を料理される神様がここにいるとしましょう。力で言えば太白山も吹き飛ばし、地球にも穴を開けることができる能力の神様なのですが、そのような神様を皆さんの目で見ながら生きるとしたら生活することができると思いますか。神様が見えなくて良かったというのです。見えれば皆さんは神経が衰弱して一時間も我慢できないのです。ですから神様が見えないことを有り難く思わなければなりません。これは笑い話ではありません。今までの話は私がそのような問題を中心として深刻に通過してきた経験談です。他人のことを言ったのではなく、私が今までたどってきた経歴報告のような話です。
            *
もしこの世界に空気が一升しか残っていないとすればどうなるでしょうか。神様が意地悪い方ならば、世界統一は問題ありません。多分五分以内に統一されるでしょう。神様が空気をすべてもっていって「お前たち統一するのか、しないのか」と言えば、世界人類が合唱して「統一します」と言うのです。そのようにすれば一遍に統一することができますが、神様が空気をもってそのようにされないことは有り難いことです。空気がなければ私たちは生きることができません。このように空気は生命に絶対に必要な要素です。ところが空気に対して有り難く思いもせずにどろぼうみたいに使っています。
            *
天宙の大主宰なる神様が人間の目に見えるようになれば、神様をお互いが奪い合おうとしてけんかをするでしょうか、しないでしょうか。このけんかを防ぐ道がないのです。神様が見えなくて良かったのです。もし神様が見えたとしたらアメリカとソ連がお互いに自分の神様だと争うでしょうか、争わないでしょうか。争うのです。その争いを誰が止めることができますか。神様は全知であられ、こんな争いが起こるかもしれないので無形でいらっしゃるのです。神様が見えることを願うのはばかげた行為なのです。見えなくて良かったのです。
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この宇宙は神秘に包まれています。その大きさが二百十億光年にもなる大宇宙です。一光年とは光が一年間かかって行く距離を言います。一秒間に地球を七周半も回ることができる光ですが、この光が一年間かかって行くのが一光年です。それではこのように大きい宇宙を支配することができる主人はどれほど大きいでしょうか。背が高いとすればどれほど大きいでしょうか。神様がそれほど大きければ神様自身が足手まといな体を引きずって歩き回ることができるでしょうか。ずるずると歩き回るとすればどれほど大変でしょうか。一度動けば、宇宙が全部驚き倒れるのです。神様は知恵深い方です。それで「見えない主人になろう」と考えたのです。
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それでは神様がどれほど重いですか。それを考えたことがありますか。神様がどれほど重いですか。斤数で量れば何斤になるでしょうか。何億万トンになるでしょうか。重ければその体で歩き回るのは大変ですが、神様は無形でいらっしゃるので理想的です。財布に入れて歩いても重くありません。また、無形なのでどんなに狭い針の穴も通り抜けることができます。思いどおりに運行できるのです。大きいと言えば大きいのに、小さいと言えば無限に小さく、この宇宙どこにでも思いどおりに運行することができるのです。
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一番貴重な物があったとしたら、いつも持ち歩きながら、一時もその物と離れたくないのです。それでは最高の宝物といえる神様を持っているとすれば、その方をどこにしまっておきたいでしょうか。安全にしまっておくことができる倉庫があるとしたらどこでしょうか。その倉庫が私たちの心です。人間の心が神様を安全にしまっておくことができる倉庫です。
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神様は無形なので、有形の存在を自分より重要視しなければならないという結論が出るのです。そうでなければ回らないのです。また、人は自分の体より見えない心と神様をもっと重要視しなければならないのです。


 2.本来は自然に分かるようになっていた

人類が堕落しないで本性の善なる父母を通じて生まれていたならば、神様がいるのかいないのかという弁論は必要ではなかったはずです。生まれながらにして自然に分かるというのです。赤ちゃんがおなかの中でお乳を飲む方法を習ってから生まれますか。生まれてすぐに目の前にお乳があれば吸うようになっているのです。自動的に分かるようになっているのです。人類が堕落しなかったならば、神様との関係を自動的に知り、自動的に解決し、自動的に行かなければならない立場であることを知るようになっていたはずです。ところが堕落することにより全部忘れ去ってしまったのです。それで神様がいるのかいないのかを疑う、結果の世界になったのです。これは悲惨な事実です。
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人はこの宇宙の被造万物の中の傑作品です。どのくらい傑作品かというと、皆さんが察することのできないくらい大きく素晴らしい傑作品です。それでは絶対的な神様がいらっしゃって、人を造られたとしたら神様自身が言うこと、見ること、感じることを人間には分からないように造られるでしょうか。
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神様に似たアダムとエバが人類の父と母になったならば、その姿を通じていつも神様がいらっしゃることを歴史を通じて認知できるはずでした。もしそのようになったとすれば神様に対して疑うようなことはできなくなるのです。堕落しなかったならば、いつでも見ることができ、呼べばすぐ現れるようになっていたのです。そのような基準になったならば、誰が神様は存在しないと否認するでしょうか。否認することができないのです。
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「神様がいる、神様がいる」というのは言葉だけではないのです。原理を通じて主体と対象の関係を中心として見る時に、神様は不可避的にいなければならないという立場ではなく、神様は私が考える前にいたのです。私のすべての感覚、私の一切を主管する天ではないかという立場なのです。それを認識することが何よりも重要な問題です。知って認識するのが原則ではなく、認識して知るようになっているのです。
私たちは寒ければ寒いというのを知って感じるのではなく、寒いことを感じて知るのではないですか。これと同じように神がいらっしゃるなら神がいらっしゃることを皆さんが感じなければなりません。細胞で感じなければなりません。その境地が問題なのです。言い換えれば体恤的立場をどのように私たちが確定するのかという問題、これが問題なのです。
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皆さんが寝ていても「お父様」と言うことができ、独り言でも「お父様」と言えなければなりません。御飯を食べるのも忘れ、寝るのも忘れながらその生活の裏面で父に対する懐かしさをもって「お父様」と言えば、父の手に捕まるようになるのです。夢のような事実が起こるのです。「お父様」と言えば父の懐に抱かれるのです。このような表現的圏において体恤的感情をどのように体得するのかということは信仰生活で何よりも貴いということを知らなければなりません。そのような体恤の感度、感じる度数、その量いかんがその人の信仰基準になり得るのです。そのような愛の心情をもったならばどこかに行って「私がこれをしなければならない」という時は、「天よ、共にいてくださるように」と言う前に既に神様は共にいるのです。このようなことを皆さんが感じれば、「有り難い神様」と言うようになるのです。
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統一教会の原理は、神様は無形の絶対的主体として、二性性相の中和的主体としていらっしゃる方だと言います。二性性相であられる神様自身の分性的実体としてアダムとエバを造り、彼らが成長して愛を中心として横的に連結されるとき、縦的な立場で中心になろうとされたのです。それは何のことかと言えば、アダムとエバが成熟すれば神様の男性性相はアダムの心の中に、神様の女性性相はエバの心の中に入っていくということです。だからといって神様が分かれるのではありません。そのような二性性相の主体としていらっしゃる神様なので、アダムとエバの心の中に臨在することができるというのです。
            *
神様は二性性相の中和的存在だというでしょう。中和的立場で愛を中心とした統一的存在ということは今まで話さなかったのです。そこに愛を中心とした統一的存在だということをつけ加えなければならないのです。

2013年5月13日月曜日

文鮮明先生のみ言集 侍る生活から


文鮮明先生のみ言集
侍る生活
韓国の清平聖地 『文鮮明先生み言選集第七十八巻』
一九七五年五月一日


 今後、皆さんが考えるべきことは、侍る生活を実践しなければならない時に入っていくということです。

◆侍る生活の必要性

 それでは侍る生活をしようとするなら、一番最初に誰に侍らなければならないでしょうか。神様に侍らなければならないのです。神様に侍る目的は、結局私が良くなるためのものです。私が良くなるには神様の愛を受けなければなりません。神様の愛を受けないと、どんなに外的に自分が良くなろうと努力してみたところで効果がありません。神様の愛がとどまることができる人にならなくては良くなることができないのです。

 今日まで統一教会は、迫害の中で真に難しい道を歩んできましたが、今まで滅びず発展してきたのは、神様のみ旨の中にあって神様の愛を受けることのできる立場にあったためです。神様の愛を受ける団体や人は、神様が保護するというのです。

 父母は愛する子があれば、子が考えなくてもいつも思っているのです。この世の中でもそうです。夫婦ならば、夫婦の間で愛する妻や夫に対しては、その当事者が知らなくても考えてあげ、福を祈ってあげ、あるいは助けることのできる道をつくってあげようとします。このような夫婦の愛によって因縁が生じるのです。

 国に対してもそうです。国を愛する人がいるという時、国を愛するその心に感動を受けて、その国民がその人を通して福を受けるようになるというのです。その国を愛する人によって国民全体が福を受けるようになるというのです。それゆえ、その国においてすべての国民が愛国者になることを願わなければなりません。愛国者が多くなればその国は興るのです。それはなぜそうなのかと言えば、一国のすべての存在物が生まれてくるときに、本来、神様の愛の中で保護を受けて生まれたためです。

 したがって神様の愛を受ける存在の前には、我知らず引かれていくというのです。人も引かれていき、お金も引かれていき、すべての万有の存在が引かれていくのです。それはこの実体世界もそうですが、霊的世界も同じです。そのようにだんだん神様の愛をたくさん受ければたくさん受けるほど大きくなっていくことによって、それは自動的に一つの中心的な個人になることができるのであり、団体になることができるのです。また、国民を通して愛を受けることのできる基盤を築けば、世界を動かすことのできる一つの国家になるというのです。

 それが原則であるがゆえに、皆さんは侍る生活をしなければならないのです。このように、侍る生活は何ゆえしなければならないかという問題について考えてみるとき、神様の愛を受けるためだということを知らなければなりません。

 したがって、皆さんはまず神様に侍らなければなりません。神様の愛を受けようとするなら、どのようにしなければならないでしょうか。神様が私たち人間に完全な愛をもって来られるので、私たちも完全な内容を投入しなければならないのです。

 「至誠ならば感天」という韓国の格言があるのですが、真にそれは天理に通じた言葉です。「精誠を込める」というとき、精誠を込めるとは内外をみな尽くすということです。言行深思とすべての実践と、内外のすべての私たちの良心生活圏までもすっかり合わせて捧げるということです。それが精誠です。

 そこで「精」は精神のことを言い、「誠」はみ言を意味する言偏に、成し遂げるという意味の「成」を合わせたものです。それゆえ内外のすべてを成し遂げて捧げるという意味です。そのようになってこそ感天、天が感動するというのです。天が感動することによってその人を考えて、考えるだけなく考えが常にとどまるようになれば、そこには愛が訪ねてくるのです。すべての考えがそこにとどまるようになると愛が連結するのです。

 考えるところに人の心が動くのです。それゆえ精誠を込める立場に立ってこそ、神様の愛を受けることができるのです。神様が私たち人間を愛するように、皆さんが神様のために精誠ですべてのことを捧げれば、そこで初めて神様の愛を感じて、神様を愛することができるというのです。

 本来、人間が堕落したがゆえに、皆さん自身が神様を愛することができないのです。したがって、神様のために精誠を込めることによって神様の愛が私に尋ねてくるのであり、その愛を通して神様を知って神様を愛せるようになるというのです。愛の根源は神様です。

◆堕落人間が神様の愛を受けることのできる道

 私たちがこの愛の歴史を見ると、愛は神様から出発したけれども、それが移されてきた道は、昔アダムとエバの時代にはアダムに移されたのです。アダムを通して愛の歴史が連結してきたのです。

 その話は、神様の愛はお父さんを通じて連結してきたということです。その次に、お父さんを通したその愛は、お母さんを通して移されるようになります。このようにお母さん、お父さんの愛が合わさって結実するようになります。夫婦が愛で一つになることによって、本来の神様の対象的な深い愛をもつことができるというのです。

 夫婦が互いに愛をやりとりすることのできる立場で初めて、第二の愛の主人公になることができるというのが原理観です。第一の愛の主人公は神様ですが、第二の愛の主人公は、アダムとエバが一つになることによって父母になることから始まるのです。

 したがって、父母は愛の第二の主人公だというのです。そのように愛の歴史は神様から父母を通して息子に連結するのです。これが、本来の愛が由来した伝統的歴史だというのです。

 では、私たちが神様の愛を受けようとすれば、どのようにしなければならないでしょうか。これが問題です。今まで人々は「宗教を信じて救いを受けよう」と言ってきたのですが、ここで救いを受けるという言葉の意味は、神様の愛を受けることです。そのために今まで人々は道主を信じてきたというのです。

 各宗教ごとに主人がいるのですが、その宗教の主人とはどんな人でしょうか。人間は堕落することによって父母を失いました。放浪者のような孤児になったのです。こういう立場にあるために、この人々を神様が父母の代わりに愛の因縁を受けるようにしなくては、天の愛圏である内的救いの道理に入っていくことができません。

 したがって神様は道主を送り、道主を神様の愛を受ける息子のような立場に立て、父的使命を代行するようにするのです。そうして神様の愛の圏内に第二次的に入っていこうとするのが宗教だというのです。

◆神様の愛の出発

 キリスト教を見れば、これを備えているというのです。聖父、聖子、聖霊が正にそれです。聖子から聖霊までお父さん神、お母さん神を中心として信じて出てきたということは驚くべきことです。これは、人間がしたことではないというのです。

 天がこのような愛の理想を実現できる一つの母体として地上に宗教的な形態を備えたのですが、そこに第二の神様のような愛の主人公の形態を自ら残すことができるようにしておいたものがキリスト教です。それゆえ「キリスト教は全宗教の中心になることができる」という論理もここで成立するのです。

 神様の愛の摂理はこのような経路を通してくるので、今日の私たちが神様を信じて、また霊肉を中心とした父母に侍るのです。これは驚くべきことです。

 霊界にいる霊人や地上にいる人間において、最高の望みは神様の愛を受けることです。最高の願いも神様の愛を受けることです。ところが今までは、霊界の基準が分かれていました。今までは霊肉の実体として、神様の愛を受けることのできる父母を人間がどんなに探し出そうとしても探し出すことができず、もとうとしてももつことができなかったそのような歴史時代を経てきました。けれども今私たち統一教会時代になって、霊肉を中心とした父母の起源をもつことができるということは驚くべき事実です。

 それゆえ今日、この地上において霊肉を中心として神様の愛を完成的段階に橋渡しすることのできる責任者が、来られる主だというのです。来られる主がこの地上の主人公だというのです。

 では、そういう主人公になろうとするなら何をもたなければならないでしょうか。武器を持ってなるのではなく、権力をもってなるのではなく、何かの言葉をもってなるのではありません。それは正に愛です。公認された愛の立場でその人格が完成する時、それは万世に通じます。どこでも通じないところがありません。霊界でも王宮でも地上世界でも、どこにでもみな通じるのです。

 それで今日すべての人間は、これから来られる主人公を探しているのですが、その主人公はお父さん、お母さんだというのです。このように考えてみるとき、キリスト教で「新郎新婦」とうまく結論を下したというのです。来られる主は父として来るのであり、新婦は母として登場するのです。それが実体を備えて現れるようになる時、神様の愛は彼らを通して初めて出発するというのです。

 今日、私たち統一教会は神様の愛を受けるために信じるのですが、信じるにはどのように信じなければならないかというのです。神様の愛を中心として第二次的な愛の主人のような立場で、霊肉の完成的基盤の上に立ったのが真の父母です。それでその真の父母を中心として至誠をみな尽くす道しかないという結論に達するのです。

 そういう生活が「侍る生活」です。過去には霊界に対して、神様に対して精誠を込めたり祭祀を捧げたりしたのですが、今からはそのようなことをしなくてもよいというのです。

 今では自分の生活が祭祀であるというのです。神様の愛の圏内で美しく生き、その愛を受ける人として権威を立てることのできる生活をすることが祭祀より優るというのです。そのような時になったゆえに、侍る生活を皆さんがしなければならないのです。

◆侍る生活は精誠により真の父母と一つになる生活

 では、侍る生活とはどんな生活でしょうか。至誠をみな尽くす生活です。昔は霊的に神様に対し精誠を込めましたが、今日では実体的な父母の前に孝誠をみな尽くすのです。そのように孝誠を至誠の限り尽くす道が国に対する忠誠の起こりになり、万民に対して万国を代表した聖賢の生き方だったのです。

 したがって今日、この地上で、平面的な立場で父母に侍り孝誠をみな尽くすという事実は、国の忠臣の道理を受け継ぐことができ、世界の聖人の道理を受け継ぐことができる価値あることなのです。それゆえ神様、あるいは真の父母の前に孝子の名前をもって、孝子として公認を受けるということは偉大で驚くべきことです。その場に立つようになるならばイエス様もうらやむはずであり、今までの歴史時代のいかなる道主たちもうらやむということを皆さんは知らなければなりません。

 これから真の父母と皆さんは鉄石のように固く一つにならなければなりません。この関係はこの宇宙のいかなるものによっても切り離すことはできず、ここには異議がないというのです。自分のお母さんとお父さんに対して説明を通してそれを「違う」と言うことのできる論理があり得ますか。力でもって「違う」と言うことができますか。そのようなことは天下にありません。

 それは神様もできず、その誰もができないのと同様に、皆さんが精誠を込めて真の父母と一つになれば、誰もそれについてくることはできないのです。そこで自分だけがもつことのできる、最高の精誠を込めた基盤をもつことによって、神様の愛が父母を通して自身に宿るようになるのです。

 そういう立場に立つことによって、初めて皆さんは原理で教えてくれる神様の愛を中心として、真の父母を中心として初めて皆さんの前に愛がとどまることができるので、四位基台を完成できるというのです。これが侍る立場だということを知らなければなりません。それ以外に他の道はないというのです。

 これから神様の愛を受けなければなりません。神様の愛を受ける道が、その道です。神様の愛はアダムとエバから始まります。彼らが完全に一つになれば、神様と一つになることのできる主体対象関係になるので、第二の主体になるのです。それによって、実体をもった神様の愛の機関になるというのです。その機関を中心として、昔イエス様を信じた以上、道に対し精誠を込めた以上、至誠をみな尽くし孝誠の道理を成せば、自動的に神様の愛の圏内に入っていくことができるのです。

 より一層有り難いことは、昔はどんなに霊的に精誠を込めても、その精誠に対する反応を受けることのできる主体になれなかったけれども、今はそうではないというのです。父母があってその父母に精誠を込めるようになれば、その父母が霊的に反応してもくれるのですが、実体的に会うようになるならば、その父母がどんなに初めて会ったとしても、そばにいることを好むというのです。

 精誠を込めた人はそうだというのです。先生が「それ、それ、なぜ出てくるのか」という人々は精誠を込めなかった人です。精誠を込めた人は、いくら見ても嫌ではないというのです。外的な姿はどんなにみすぼらしくても天の前に精誠を込めれば、その本性が愛の主体の前に対象的な立場に立つので、その完全な対象と完全な主体の間に神様の愛が自然ににじみ出て作用をします。したがって自然に一つになります。いなければ寂しいというのです。この世に生きる楽しみがないというのです。

 それで一番おもしろい話が、御父母様のする話です。また、御父母様が一番喜ぶことが息子、娘が今、何をしているという話、自慢する話、うまくいっている話です。それが父母の楽しみであり、神様の喜びだということを皆さんが知らなければなりません。

◆精誠の重要性

 では、天国はどこにあるでしょうか。空中から落ちてくるのではありません。天国は父母と子の間にやりとりする生活的な舞台が大きく、その中にあるすべての被造物を自らの生活で理想の条件として利用できるおもしろさを一〇〇パーセント享受することのできる所です。そういう所が天国です。天国が別の所にあるのではありません。

 それゆえ仕事をしても、御父母様のためにする仕事がどれほど良いかというのです。私が違うことをしても、私がどんなに苦労をしても、その仕事が父母の命令に従って天道を明らかにすることができ、万民を解放できる驚くべき価値のある仕事だとすれば、それがどれほど有り難く、どれほど福の多いことなのか分かりません。ですから難しくても感謝して、不平不満をもたない生活にならなければなりません。そういう生活がなされるようになる時、その人は天国人になれます

 その場は皆さんが考えるような、そんなに漠然とした立場ではありません。直接的にお父様、お母様が私の皮膚にぶつかってきて、私の精神にぶつかってくるのです。

 そのようなことが心からの感動の爆発として自分を刺激することを感じれば、その人は既に天国の中で生きている人です。そのようになれば、既にちょっと人に対すれば「あの人は悪い人で、あの人は良い人だ」ということが分かります。そのようになれば皆さんが想像できない、次元の高い直接主管圏内に入ってくるのです。それが原理観です。そのように生きてみてください。

 もし皆さんが、「私がこの品物を先生に差し上げようと三年精誠を込めたにもかかわらず、持っていって差し上げることができません」と、こう言いながら、西方にいる人は東方に向けて、また東方にいる人は西方に向けて御父母様のいらっしゃる天を眺めて、一年の四季を送りながら、季節が変化すれば変化するほど、そこに沿って心がより切実になるならば直接通じます。

 自分があげたい以上のものを受けたことで感謝する、そういう心をもっていけばいくほど仕事がうまくいき、霊的世界が明るくなるというのです。結局は精誠を込めなければならないのです。

 精誠を込めることが重要だということを皆さんが知らなければなりません。皆さんが鏡を見て「この目が御父母様に会いたくて涙を何度流し、この口が御父母様の解怨成就をどれほど叫んでみたことか、この耳が御父母様のうれしい消息を聞くことをどれほど待ち焦がれ、この手がどれほど御父母様の地で血を流して仕事をしたのか。それができないことが恨だ」こういう心を感じなければなりません。その道を尋ねていくことが幸福であり、その道で天と因縁を結ぶことが幸福な道だということを知って行く人は真に幸福な人です。

 その人は誰も支配することができないのです。その人を動かすことのできる人は父母しかいないのであり、その人を感動させることのできる人も父母しかいないのであり、その人を幸福にする人も父母しかいないのです。また、父母もそうです。父母を幸福にできるのはその息子しかないのです。また、父母を喜ばせてさしあげることのできる人もその息子しかないのです。

 父母の願いがあるならば、父母自体にあるのではなく、その息子にあるのです。そうしてその父母の代を継いで、天国の継代を億千万代に相続できる道がここで繰り広げられるということを皆さんは知らなければなりません。

◆愛する心で常に精誠を込めてこそ神様の愛が共にある

 ですから、これからは侍る生活をしなければなりません。夫婦の間でもそうです。夫婦が今まで暮らしてきたのを見れば、言葉では共にすると言うけれども、実際には共にしない家庭が多いのです。自分の主張は自分の主張のままであり、主体・対象関係においては心情的に一つになれなくて、天の前に連結したその何ものもありません。昔と変わったことが何もないのです。それはそういう原則的な愛ができなかったためです。神様に侍る生活において合格した立場に立つことができなかったためにそうだというのです。今後、そのような面で特別に皆さんが努力しなければならないでしょう。

 寝ても覚めても皆さんの考えの中には天が共にあり、父母と共にあると考えなければなりません。「御父母様が何千年ぶりに尋ねてこられた!」と、このように考えてみなければなりません。その父母が何千年ぶりに一度尋ねてくるために、数多くの善なる先祖たちが犠牲の代価を払い、数多くの世界が今まで滅びながら、数多くの国がふらつきながらも立ち上がり、また滅びては立ち上がるという瀬戸際を歩いてきました。

 そうして幸い侍ったその父母、その誰よりも先に侍り精誠を込めたいその父母、そうして「たとえ我が家がわらぶきの家だとしても、その父母が行った道を振り返って尋ねてきて留まることができたならば……、そういう父母に侍ってみることができたら……」と、慕う生活をしなければならないのです。農業をしてもそうだというのです。「ああ、御父母様が来られたならばこれを差し上げなければ」というのが天地の道理です。

 天地といえば天と地をいいます。天地の道理とは何でしょうか。夫婦二人が一つになっていく道、すなわち愛の道をいうのです。それゆえ、愛があればすべてが幸福になるけれど、愛がなくなればすべてが不幸になるのです。愛があればすべてが和動するけれど、愛がなければ荒れ果てて荒野になるのです。問題はそこにあるというのです。

 御父母様が自分の地域に来られれば、御父母様の話を聞いてみたくて、ひたすらに十里の道も飛んでいくことのできる心がなければなりません。教区長とか教域長を通して伝達する消息があれば「私がまず行かなければならない」と、こう言える人にならなければなりません。皆さんはこのような心をもって、今後自分の生活舞台に実現させなければなりません。

 これだけをまず備えれば、どんなに世界に出て行っても恥ずかしくないはずです。例えば御飯を食べても、水を飲んでも、どこに行っても、座っても立っても、誰に対そうが、御父母様の前での幼い心情を彼らの前に見せることができれば、それで満点なのです。

 その場では、知識が重要なのでありません。博士学位が通じるのではありません。それはけんかをしたり、収拾するときに必要なのです。暮らす時に、学位をもって暮らしますか。神様の前で「私は○○博士だ!」と、そう言っては暮らせません。お父さんが息子に「やあやあ、哲学博士なにがし、数学博士なにがし」と、そのようにはできません。御父母様の前では、そのようなことはすべて必要ありません。

 神様の愛を誘導できるただ一つの道は、「至誠ならば感天」それしかないというのです。水を見ても御父母様を考え、何を見ても御父母様を考えなければなりません。先生はそのような人です。

◆侍る生活と天国実現

 先生は清 平が本当に好きです。自然を好む人なのです。一人でいれば心情が乾ききってしまいますが、自然を眺めれば多様な刺激を感じるようになります。それぞれこの宇宙の中に、主人公のためにその存在の姿を表しているということが、どれほど美しいかというのです。

 それで先生は、すべて主体と対象のような感じがするのです。山を見ても真にかわいそうに見え、じっとしていても呼んでいるような霊感が来るのです。自然がそのようなことを見せてくれて、私がそれを感じるようになるのです。そのようなことは一般の人はよく知らないのです。そのような世界を感じられない人は知らないのです。そのようなことを皆さんが考えなければなりません。

 言い換えれば、侍る生活は遠くにあるのではないです。神様の愛の役事は父と母を通してなされるのですが、彼らが一つになれば第二の愛の主体として現れるのです。アダムとエバが一つになっていたなら堕落はなかったのに、これが壊れたのです。それで、これを再現させるための真の父母の愛を中心として、対象的な横的基盤を拡大させる仕事が復帰歴史です。このような生活舞台を備えてこそ地上に天国実現が可能だというのです。

 天国は神様に侍って、御父母様に侍って、愛されて生きる所です。神様と御父母様に侍って、互いに愛する所が天国なのです。

 皆さんがこの愛を夫と妻に適用して、同僚の間に適用しなければなりません。私が御父母様に会いたいのと同様に、父母は自分の兄弟を自分よりももっと愛することを願います。事実がそうなのです。自分の父母には孝行すると言いながら兄弟同士けんかするようになれば、その孝行は成立しないというのです。

 父母は自分を思ってくれる心よりも、兄弟同士がより「ため」に生きることを願うのです。たとえ父母を世話することができなくても「お母さん、すこし待ってください。私は弟(妹)を愛してきます」と言えば、「こいつ、今後役に立つやつだ」と、そういうのが父母の心です。

 それと同様に、兄弟を父母以上に愛するという人は、天国の境界線内で永遠に暮らせる人です。しかし、兄弟を父母のように愛することができない人は、ここから外れるのです。このように、その道理の根本を悟ってみれば簡単だというのです。

 ですから私たち食口の間で一つになるか、なれないかということが問題です。父母の前に孝行できないそういう立場に立ったならば、父母のために自分が精誠を込めたことを、父母の代わりに自分の食口のために与えなさい。そうすれば、父母に孝行した以上のものとして天が受け入れるのです。そのような人は必ず祝福を受けるのです。

◆神様の愛を実現する所は家庭

 祝福の中で一番重要なこととは何でしょうか。お金ではなく、名誉でもありません。権力でもありません。息子、娘がうまくいくことです。皆さんがそれを知らなければなりません。祝福の中で一番良い福は、息子、娘が天の愛を受けることができるように生まれることです。

 そこから、その息子が私より神様の愛をたくさん受ければ、どのようになるでしょうか。山の谷間で降りてきた送電線のようなものを見れば、たるんでいるけれども、片方でつかんで引っ張ればぴんと張ります。同様に息子が天の愛をたくさん受けるようになれば、私がある程度落ちたとしてもぐっと上がることができるのです。恵みを受けるのです。

 そのようにして三代が自分以上にどんどん発展するようになれば、一つの世代を飛躍できるというのです。したがって、福の中の一番の福はお金でも権力でもなく、神様の愛の中に生まれた立派な息子、娘をもつことです。先生は相当にそのような面に関心があります。次に生まれる息子、娘がどのように生まれるかということが、千万金よりもっと重要なのです。

 しかも皆さんが直接的に真の父母を中心としてそのような心情の基盤を築くようになれば、統一教会の道運をもって生まれるのです。天地の運勢をもって生まれます。ある家の父母を見れば、豆のはじけた皮ぐらいにしかならないのに、息子、娘は立派に生まれるそのような場合があります。だから観相家や、四柱によって運勢を占う人までも驚くのです。「どうやってあんな家庭で生まれたのか」と言うのです。それは統一教会の道運があるからです。

 ところが「私が統一教会に入って何年にもなるのに……」こう言いながら、「自分のことを知ってくれ」と言う人がいるのですが、それはよく分かっていない人です。神様が認めて、私の父母が認めて、私の息子、娘が認めればそれでいいのです。

 「誰かを通して認めてくれ」と言ってはなりません。「認めてくれるなら認めて、嫌ならやめろ」そうでなければなりません。神様が認めて、父母が認めて、息子、娘が認めればいいのです。世の中の人がどんなに何といっても、夫婦が一つになって私と一緒に幸福で、私と一緒に感謝すれば、それは幸福な家庭になるのです。四位基台の理想を実現した基盤を備えればいいのです。こういうことを知って、これからは皆さんが家庭でそのような生活をしなければなりません。神様の愛を実践しなさいというのです。

◆精誠さえ尽くせば神様が共にある

 神様の愛はどこから来るのでしょうか。来る秘法は、他のところにあるのではありません。御父母様のために至誠を尽くし、神様のために至誠を尽くせばいいのです。神様のために至誠を尽くせば漠然としているけれども、御父母様のために至誠を尽くせば平面的に運勢が動くので、すべての面で直感的に悟ることが多いというのです。

 例えば、過去のキリスト教徒は上がる時精誠を多く尽くしました。個人で国家基準まで上がることが蕩減復帰路程です。ですから難しかったのです。一段階上がってから間違って一段階落ちれば、上がることができません。そこで巡っている途中で一生を終えるのです。精誠を込めて何段階か行ってからまた落ちれば、そこで滅びるのです。これが国家基準まで上がってくるために、数十万年もかかったのです。ですから霊的な基準を中心として、今までどれほど苦労したかというのです。

 それゆえ昔は、イエス様を信じても道に通じるのが真に難しかったのです。直接指導を受けるというのは真に困難でした。ましてや、愛という心情を感じることは真に難しかったというのです。それが原理的にあり得たでしょうか。堕落圏であるのに、本然の神様の愛がとどまることができますか。

 今までの宗教は、神様の愛ゆえに蕩減の役事をしました。神様を知らなかったなら苦労をしなくてもよかったのに……。宗教を信じることで、かえって罰を受けました。何の罰を受けたのかといえば、サタンが総攻撃し、世の中には今悪質的に罰を受ける動きがいくらでもあるのです。罰を受ける、そのような生活をしてきたというのです。

 ところが今の時代において、私たち統一教会では平面的だというのです。真の父母を中心とした基準になっているために、皆さんが一週間だけ精誠を込めれば通じるというのです。通じることができるのです。必ず御父母様が現れます。先生が現れて教えてくれるのです。これがどれほどの革命なのか知らないのです。

 昔イエス様を信じた人が、霊的にとか祈祷中にイエス様に会うことが簡単だったと思いますか。七年、二十一年の精誠を込めて、初めて何度か会えたというのです。そうして一段階一段階動くことができることを教えてくれるのです。しかし今日、統一教会の信徒はあまりにも簡単だというのです。これは平面的に、あまりにも易しい段階に入ってきたためです。

 また、神様の愛を中心として連結することのできる時代に入ってきたがゆえに、神様の愛の行く所ではすべてのサタン世界は自然に解放されるのです。神様の愛がとどまる所は、サタンの不可侵圏です。これが原理です。

 原理ということは完成圏でもたらされたことをいいます。完成圏は父母がいらっしゃる所なのですが、今日父母がいらっしゃるその完成圏に立っていれば、息子、娘は未完成な人間だといっても、父母の愛を受けることのできる保護圏内に立つことができるのです。

 したがって、父母さえしっかり自分のものにしていれば、サタンがどんなにうようよしていても、そこでは堕落できないという結論が出てくるのです。それが可能なのが私たちの教会であるからには、皆さんが生きている間にここでその心情を体得することができなければ、霊界に行ってこれが何万年、何千万年かかるか分かりません。

 この地上にいるとき、このような感じを皆さんが体験することが、肉身をもったこの驚くべき価値のある時代だということを知らなければなりません。肉身を脱いでしまえば、それが不可能だというのです。どうしますか。人は永遠に地上で生きるのではありません。短い肉身のある期間に皆さんがこれをしなければなりません。裕福に暮らしているからといってそれをするのではなく、貧困な暮らしをしているからといってそれができないのではありません。自分が置かれている立場、立場において、父母に侍る愛の心を誘発させることができなければならないというのです。

◆侍る伝統を世界的に立てていかなければならない私たち

 したがって侍る生活圏を、これから皆さんが拡大していかなければなりません。これが国家基準を越えて世界時代に向かう私たちの使命として、この伝統を立てなければなりません。皆さんがこの伝統さえ立てる日には、今後の世界にいかなる民族が現れても恥ずかしくないはずです。皆さんの権威を堂々と立てても余るでしょう。

 皆さんが、木の枝のように、根から幹が出て枝が広がれば順次的に葉が開くのと同様に、皆さんの伝統の前において、すべての人々が接ぎ木をして走るようになっています。あとで入ってきて、「ああ、私が幹になろう」と言ってはいけないのです。

 こういうことを知って、これから正に侍る生活をしなければなりません。皆さんが侍る生活をするようにしました。それで今まで敬拝しなさいと指示しました。ところがある祝福家庭は「ああ、それしなかったら良いのに」と、そのような人々がいるというのです。その日が来ることを待ち、時間を待ち焦がれて座って、自分が夜を明かしながら、その時間を準備することのできる心をもってみなさいというのです。その時間が、どれほど福の多い時間なのか知らないのです。

 教会でしろということは、全部が自分の生命の代わりにできるという「忠」の心をもてというのです。「忠」というのは何でしょうか。「忠」は中心になった心を立てることです。

 中心になった心とは何ですか。それは自分の心ではありません。父母が中心であり、神様が中心です。その心を立てることが「忠」ではないですか。そのようになっています。ですから皆さんがそのように知って、侍る生活をすることによって、神様の愛の圏内に入っていくことができます。そうすれば、神様の保護圏内にいることができるということを知らなければなりません。これからは、これをしなければなりません。

 それで先生の家庭も、今後はできれば複雑な環境をだんだん避けようとするのです。私一人でそのような境地を感じることができるけれども、お母様とか子供たちがその境地の生活ができるためには、簡素化できる生活が必要だというのです。生活を簡素化しなければならないのです。

 み旨を中心にした生活を、どのようにするのですか。そうするには学校や幼稚園も、み旨を中心にした学校、幼稚園にならなければなりません。生活のすべての環境も、そのような人々がそろって暮らさなければならないのです。これが問題になるのです。生活的雰囲気をどのように造成するかが問題です。

 その次には、一生の間生きていくにおいて接する環境を、そのようにできる環境に早くつくっておかなければならないということを先生は考えています。したがって、原理原則に一致しないものがあり、心的に荷物になり、心に傷を受ける立場に立てば、これは大きな打撃だというのです。

 先生が今では霊界に対して威信を立てました。数多くの道主が、結局はこの統一教会一つのために傍系的な立場で橋渡しをしました。それで、この一つの本然の主流が曲がらないのです。主流が曲がらないようにするためには、四方で協助していかなければならないのです。そうしなければ曲がってしまうというのです。

 そのように犠牲になった傍系的な数多くの宗教を、みな解放してあげました。天使も今までアダム再創造の役事に多くの苦労をしました。しかし解怨はできませんでした。それは神様もそうで、イエス様もそうで、数多くの宗教もそうで、御父母様もそうなのです。それで先生が神様の解怨成就式、その次には父母様解怨成就式、その次にはこの全世界に代わって解怨成就式までしたのです。

 そういう地上の天国が可能であり得る時になったのですが、先生に侍る皆さんに対して、今一番心配することは、今までの皆さんの生活態度を完全に革命しなければならないという事実です。自分たちだけで、巣をつくって入っている人がいます。それは天のためにしていることではありません。

 この愛の原則を中心として、皆さんの家庭を再度実験して構成し、新しい伝統を立て、侍る生活の起源をきちんと準備しなければなりません。この侍る生活を連結させることによって天国実現が可能なことを今悟り、その道に沿ってあすから実践躬 行できる皆さんになってくれるよう願います。