2013年5月16日木曜日

真の神様 第一章 神様の本体 一神様は無形の主体であられる


 第一章 神様の本体

一 神様は無形の主体であられる

 1.無形でおられる神様

神様はどんな形態ももっていらっしゃいません。大きいと言えば無限大です。小さいと言えば無限に小さい方です。
            *
神様は果たしていらっしゃるのでしょうか。誰かがつねって「あっ」と叫ぶことよりも、おなかがすいて御飯を食べるよりも、もっと事実的に感じることができる神様がいるのでしょうか。問題はそこにあります。本当に神様がいらっしゃるとするならば、問題はすべて解決されます。
            *
人間には心があります。心は見えないので、ないようですが、あります。心はどこにあるのでしょうか。頭にあるのでしょうか、心臓の中にあるのでしょうか。心は、私の体の中のどこにでもあります。私の体の中にないところはありません。同じように神様がいらっしゃるならば、神様もこの世界が神様の体のようなものなので、この世界のどこにでもいらっしゃいます。
            *
神様を見ることはできません。皆さん、力が見えますか。神様はエネルギーの本体であるので、霊界に行っても見ることができません。
            *
知恵の神様、全知全能なる神様は、中央で思いどおりに振る舞うことができる無形な存在としていらっしゃいながら主管することが一番便利だと考えられたのです。神様は無形であるだけに、存在世界を思いどおりに突き抜けてきたとしても少しも支障を感じません。皆さんは体がありますが、神様が来て思いどおりに過ぎたとしても皆さんには分からないのです。神様がこくりこくりと居眠りしている皆さんの体を思いのままに踏んでいったとしても分からないのです。それでどんなに便利でしょう。ですから神様は考えた末に見えない神様としているのが一番便利だろうと思い、見えない神様になったという論理は妥当な論理です。
            *
私たちは空気が通っていることが分かりません。空気が通っているのにそれを感じられません。空気が通っているのを感じられないのに、神様が通っているのが分かるのかというのです。神様は無形の神としていらっしゃるのが最高の便利な方法です。そうしながら、この大きな宇宙をふろしきで包んでも余りある、そのような神様でなければならないのです。無形の神様ですが、神様の心はこの宇宙よりも大きいものを要求しているのです。
            *
皆さん! 愛をもっていますか。生命をもっていますか。皆さんの血統を継ぐことができる精子と卵子をみなもっているでしょう。良心ももっていますか。それでは愛を見たことがありますか。生命、血統、良心を見ましたか。その存在の現象は知っていますが、触ることも見ることもできないことを知らなければなりません。ただ心で感じてこそ知ることができるのです。同じ論理で神様がいるのかいないのかと言う時、または神様を見たのか見なかったのかと尋ねる時、見なかったと言うことができないのです。
            *
心の中に神様が入ってきて、いらっしゃれば心が分かります。神様が心の中に入ってくれば壁も突き通して見ることができ、じっと座って何千年前に死んだ聖人たちを運行させることもできます。永遠なる神様が心の中に入ってくればそのようにすることができます。永遠を時間ではとらえることはできませんが、永遠の中に時間があります。ですから神様は見えなくても心は分かるのです。
            *
神様はどのように愛するのかと言う時に、答えるのが大変でしょう。神様は無形の神なのでどこでも通ることができることを知らなければなりません。若奥様の目の中に入って心臓の中にも入って……。どこにでも行かないところがないのです。すべてに通じるのです。それでは、神様はどこに住んでいるのでしょうか。神様の住んでいる家は私たちの心の真ん中です。男性の心には神様の男性的心情がとどまり、女性の心には女性的心情が入って生きるというのです。
            *
全知全能なる神様、すべての天下を料理される神様がここにいるとしましょう。力で言えば太白山も吹き飛ばし、地球にも穴を開けることができる能力の神様なのですが、そのような神様を皆さんの目で見ながら生きるとしたら生活することができると思いますか。神様が見えなくて良かったというのです。見えれば皆さんは神経が衰弱して一時間も我慢できないのです。ですから神様が見えないことを有り難く思わなければなりません。これは笑い話ではありません。今までの話は私がそのような問題を中心として深刻に通過してきた経験談です。他人のことを言ったのではなく、私が今までたどってきた経歴報告のような話です。
            *
もしこの世界に空気が一升しか残っていないとすればどうなるでしょうか。神様が意地悪い方ならば、世界統一は問題ありません。多分五分以内に統一されるでしょう。神様が空気をすべてもっていって「お前たち統一するのか、しないのか」と言えば、世界人類が合唱して「統一します」と言うのです。そのようにすれば一遍に統一することができますが、神様が空気をもってそのようにされないことは有り難いことです。空気がなければ私たちは生きることができません。このように空気は生命に絶対に必要な要素です。ところが空気に対して有り難く思いもせずにどろぼうみたいに使っています。
            *
天宙の大主宰なる神様が人間の目に見えるようになれば、神様をお互いが奪い合おうとしてけんかをするでしょうか、しないでしょうか。このけんかを防ぐ道がないのです。神様が見えなくて良かったのです。もし神様が見えたとしたらアメリカとソ連がお互いに自分の神様だと争うでしょうか、争わないでしょうか。争うのです。その争いを誰が止めることができますか。神様は全知であられ、こんな争いが起こるかもしれないので無形でいらっしゃるのです。神様が見えることを願うのはばかげた行為なのです。見えなくて良かったのです。
            *
この宇宙は神秘に包まれています。その大きさが二百十億光年にもなる大宇宙です。一光年とは光が一年間かかって行く距離を言います。一秒間に地球を七周半も回ることができる光ですが、この光が一年間かかって行くのが一光年です。それではこのように大きい宇宙を支配することができる主人はどれほど大きいでしょうか。背が高いとすればどれほど大きいでしょうか。神様がそれほど大きければ神様自身が足手まといな体を引きずって歩き回ることができるでしょうか。ずるずると歩き回るとすればどれほど大変でしょうか。一度動けば、宇宙が全部驚き倒れるのです。神様は知恵深い方です。それで「見えない主人になろう」と考えたのです。
            *
それでは神様がどれほど重いですか。それを考えたことがありますか。神様がどれほど重いですか。斤数で量れば何斤になるでしょうか。何億万トンになるでしょうか。重ければその体で歩き回るのは大変ですが、神様は無形でいらっしゃるので理想的です。財布に入れて歩いても重くありません。また、無形なのでどんなに狭い針の穴も通り抜けることができます。思いどおりに運行できるのです。大きいと言えば大きいのに、小さいと言えば無限に小さく、この宇宙どこにでも思いどおりに運行することができるのです。
            *
一番貴重な物があったとしたら、いつも持ち歩きながら、一時もその物と離れたくないのです。それでは最高の宝物といえる神様を持っているとすれば、その方をどこにしまっておきたいでしょうか。安全にしまっておくことができる倉庫があるとしたらどこでしょうか。その倉庫が私たちの心です。人間の心が神様を安全にしまっておくことができる倉庫です。
            *
神様は無形なので、有形の存在を自分より重要視しなければならないという結論が出るのです。そうでなければ回らないのです。また、人は自分の体より見えない心と神様をもっと重要視しなければならないのです。


 2.本来は自然に分かるようになっていた

人類が堕落しないで本性の善なる父母を通じて生まれていたならば、神様がいるのかいないのかという弁論は必要ではなかったはずです。生まれながらにして自然に分かるというのです。赤ちゃんがおなかの中でお乳を飲む方法を習ってから生まれますか。生まれてすぐに目の前にお乳があれば吸うようになっているのです。自動的に分かるようになっているのです。人類が堕落しなかったならば、神様との関係を自動的に知り、自動的に解決し、自動的に行かなければならない立場であることを知るようになっていたはずです。ところが堕落することにより全部忘れ去ってしまったのです。それで神様がいるのかいないのかを疑う、結果の世界になったのです。これは悲惨な事実です。
            *
人はこの宇宙の被造万物の中の傑作品です。どのくらい傑作品かというと、皆さんが察することのできないくらい大きく素晴らしい傑作品です。それでは絶対的な神様がいらっしゃって、人を造られたとしたら神様自身が言うこと、見ること、感じることを人間には分からないように造られるでしょうか。
            *
神様に似たアダムとエバが人類の父と母になったならば、その姿を通じていつも神様がいらっしゃることを歴史を通じて認知できるはずでした。もしそのようになったとすれば神様に対して疑うようなことはできなくなるのです。堕落しなかったならば、いつでも見ることができ、呼べばすぐ現れるようになっていたのです。そのような基準になったならば、誰が神様は存在しないと否認するでしょうか。否認することができないのです。
            *
「神様がいる、神様がいる」というのは言葉だけではないのです。原理を通じて主体と対象の関係を中心として見る時に、神様は不可避的にいなければならないという立場ではなく、神様は私が考える前にいたのです。私のすべての感覚、私の一切を主管する天ではないかという立場なのです。それを認識することが何よりも重要な問題です。知って認識するのが原則ではなく、認識して知るようになっているのです。
私たちは寒ければ寒いというのを知って感じるのではなく、寒いことを感じて知るのではないですか。これと同じように神がいらっしゃるなら神がいらっしゃることを皆さんが感じなければなりません。細胞で感じなければなりません。その境地が問題なのです。言い換えれば体恤的立場をどのように私たちが確定するのかという問題、これが問題なのです。
            *
皆さんが寝ていても「お父様」と言うことができ、独り言でも「お父様」と言えなければなりません。御飯を食べるのも忘れ、寝るのも忘れながらその生活の裏面で父に対する懐かしさをもって「お父様」と言えば、父の手に捕まるようになるのです。夢のような事実が起こるのです。「お父様」と言えば父の懐に抱かれるのです。このような表現的圏において体恤的感情をどのように体得するのかということは信仰生活で何よりも貴いということを知らなければなりません。そのような体恤の感度、感じる度数、その量いかんがその人の信仰基準になり得るのです。そのような愛の心情をもったならばどこかに行って「私がこれをしなければならない」という時は、「天よ、共にいてくださるように」と言う前に既に神様は共にいるのです。このようなことを皆さんが感じれば、「有り難い神様」と言うようになるのです。
            *
統一教会の原理は、神様は無形の絶対的主体として、二性性相の中和的主体としていらっしゃる方だと言います。二性性相であられる神様自身の分性的実体としてアダムとエバを造り、彼らが成長して愛を中心として横的に連結されるとき、縦的な立場で中心になろうとされたのです。それは何のことかと言えば、アダムとエバが成熟すれば神様の男性性相はアダムの心の中に、神様の女性性相はエバの心の中に入っていくということです。だからといって神様が分かれるのではありません。そのような二性性相の主体としていらっしゃる神様なので、アダムとエバの心の中に臨在することができるというのです。
            *
神様は二性性相の中和的存在だというでしょう。中和的立場で愛を中心とした統一的存在ということは今まで話さなかったのです。そこに愛を中心とした統一的存在だということをつけ加えなければならないのです。

0 件のコメント:

コメントを投稿