救いの道というものは、習慣的な生活を通しては得ることができません。
完全に蕩減の道を行かなければならないのです。
救いの摂理は復帰摂理であり、復帰摂理は再創造摂理です。
それゆえ再創造するためには堕落する前と同様の本然の立場、ゼロの立場に入っていかなければならないのです。
そこには意識もないし習慣もないし、今の自分が持っている金氏とか李氏という姓もないのです。そういうゼロの立場に入っていかなければなりません。
天の創造本然の基準を考えると、創造された万物はすべてゼロから出発したのです。
ところが人間が堕落することによって、あり得ないはずの内容が、天道に反するその内容が、今日の人間世界に満ちるようになったのです。
これを叩き出してしまわなければなりません。
より分けて捨てなければならないのです。
それは□だけではできません。
サタンの愛を中心としてサタンの生命、サタンの血統の因縁をもって様々な民族が歩んできた歴史的な文化背景を中心として、互いに異なる習慣性、あるいは風習が混じり合ってぎっしり詰まっているので、これをすっと取り出せないのです。
それゆえ聖書に「死なんとする者は生きる」という言葉があるのです。
逆説的な論理が成立するのです。
死のうとしてこそ生きるのです。
自分の生命を投入しなければならないのです。
それでこのすべてを漂白し洗濯して、言い換えれば蕩減して、復帰しなければならないのです。
そのような過程が絶対に必要なのです。
堕落世界で所有していた習慣性とか罪悪性が残っていては、天との関係を結ぶことができません。(213-98)
\(^o^)/
ありがとうございます。
感謝します。
神様の恵みを感じる事が出来ますように祈ります。
ハッピー!
感謝します。