2011年10月15日土曜日

「栄光の冕旒冠」 (栄光の王冠) 詩 朗誦 : 文亨進 【再投稿】

YouTubeから、見つけました。感謝 ‼


「栄光の冕旒冠」 (栄光の王冠)

『私が人を疑う時、私は苦痛を感じます。
私が人を審判する時、私は耐えることができません。
私が人を憎悪する時、私は存在の価値をなくします。
しかし、もし私が信じれば、私はだまされます。
もし私が愛すれば私は裏切りにあいます。
こよい手の中にしずむ私の頭は、
苦悩と悲しみに震えています。
私が間違っているのですか?
そうです。私が間違っているのです。
たとえ裏切りに会ったとしても、なおまた許さなければなりません。
あなたを憎悪する者にもかんぜん 愛を与えなければなりません。

(お父様の祈祷)
「愛せない群れを愛し、神の心情をだれも知ることができませんでした。
この私は知ったために悲しみを覚悟し、死を覚悟し、40年の峠を越えてきた苦難の道を天の心情を慰めることのできるみちであるために、どんな道だとしても、どんな死の道だとしても、越えなければならないと決意した決心を中心として… 」

涙を拭いほほ笑みで迎えねばなりません。
騙すことしか知らない者らを
うれいて 悔いることのないものらを
おお、主よ! 愛するという痛みを
私のこの手を見てください。
この私の胸に主の手を、置いてみてください。
私の胸はそんな、苦悩のなかで破裂しそうです。
しかし、逆らう者を私が愛した時、私は勝利を手にしたのです。
もし、あなたも、私のように愛するならば、
私はあなたに「栄光の冕旒冠」を捧げましょう』

2002年 国際詩人協会 最優秀作
お父様が16歳になられた1935年に書かれた祈祷文の詩。
この祈祷の詩が紹介された本の中でお父様は「16歳になった歳の復活祭の聖日の朝にイエス様が現れた。
この日から私は神様の御旨を成就させるために天の命ずるままに御旨の道を歩んできた」
とあいさつの言葉を残されている。


Reverendo Sun Myung Moon - Verdadeiro Pai (corpo)

天地人真の父母様に感謝します。
言葉を越えた何かを心で感じて下さい。
ありがとうございます、感謝します。
あなたに、神様の祝福があります様に祈ります。

文鮮明先生のみ言 「 宇宙の根本 」 3.神様の宇宙創造の動機は愛 -3

 全知全能の神様、遍在する神様が、何が不足で人を造られたのでしょうか。神様にお金が必要で、金の塊が必要で、ダイヤモンドが必要ですか。そのようなものはいくらでもあります。それでは、知識が必要ですか。神様は知識の王なので、知識はいくらでもあります。それならば権力が必要ですか。権力とは、神様にとってあってもよく、なくてもよいものです。神様に不足だったのは愛です。愛というものは相対的関係においてのみ成立するものだからです。神様も、愛を必要とする神様にならずしては、この創造世界と人間世界が関係を結ぶことができないのです。ですから、愛をもって訪ねてこなければ存在世界とは関係ないという結論が出てくるので、神様は愛を標準として定めてこられたのです。

              *

 神様がなぜ天地を創造されたのでしょうか。いくら絶対者だといっても一人では喜びを感じることができず、仮にうれしいと思っても喜びの刺激を感じることができないので創造されたのです。絶対者がいくら、「私は絶対者だ。私は愛の主人公だ。生命の主人公だ」と言ったとしても、絶対者一人では愛の刺激を感じることができませんし、天地が私の体の中にあるという生命の刺激を感じることができないのです。

              *

 神様が自分自身だけを考えたとするなら天地創造をされたでしょうか。創造とは、力の投入をいうのです。芸術家は、最高の傑作品をつくることが願いです。芸術家は、傑作品をつくるためにあらゆる精誠を投入します。すべてを投入するところにおいてのみ完全な傑作品が出てきます。これ以上できないという時に、初めて傑作品が生まれます。

 創造は、投入するところから始まります。力を投入してこそ創造が可能です。力を投入しなくてはいかなるものも生まれません。完全な投入をするところから完全な対象が成立するという原則をおいて見る時、神様は主体として対象を造るために完全に投入されました。神様御自身が、自分自身のためにではなく、対象のために生きるといって運動を始めたのが創造です。

              *

 創造するということは、力の投入をいうのです。投入をしたのですが、どれほど投入したのでしょうか。神様がみ言によって造られる時、「このようになれ、あのようになれ」といたずらに創造したかのように理解しています。違います。そうではありません。ここには真の生命を完全に投入して、真の愛を完全に投入して、真の理想を完全に投入しました。私たちも精誠を尽くさず、血と肉を投入しないものは愛しません。

 それゆえに、創造する前と創造したあとが違います。創造する前には自分のことを考えましたが、創造を始めてからは対象のために生きました。私がいるのは自分のためではなく相対のためだ、息子、娘のためだ、このようになっています。

3.神様の宇宙創造の動機は愛 の中からのみ言葉です。

神様と真の父母様に感謝します。
ありがとうございます。

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2011年10月13日木曜日

文鮮明先生のみ言 「 宇宙の根本 」 3.神様の宇宙創造の動機は愛 -2

 宇宙の根本とは何でしょうか。この宇宙が生まれる前には何があったのでしょうか。神様ですか。神様だけいましたか。愛が見えますか。愛は実体がありませんが、愛はどこにありますか。愛はコンセプト(概念)です。神様においても、愛はコンセプトなのです。神様にとっても、愛はコンセプトだということを知らなければなりません。

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 神様は、なぜ創造をされたのでしょうか。愛のためにされました。愛は、一人ではできないのです。相対がいなければなりません。一人でいる愛は縦的な愛なので、環境的条件がありません。

              *

 神様は絶対者ですが、何が慕わしくて人を創造されたのでしょうか。黄金も何の知識も必要ない全知全能の神様が、もっていないものは一つもない神様が、何が必要で人を造られたのですか。

 すなわち、創造の根本動機は何ですか。それは権力でもなく、知識でもなく、所有でもないのです。神様には愛の基盤がなかったのです。神様も一人では愛を成し遂げることができないのです。それゆえに、天地創造の動機が愛だというのです。

              *

 神様は、なぜ天地を創造されたのでしょうか。その全知全能の絶対者が、何がなくて人を創造されたのでしょうか。愛のために創造されました。愛は相対がなくては現れません。相対がいないのに作用するようになれば損をします。すべて自分を保護するようになっています。損をするところでは絶対に動きません。愛は、相対が現れれば、ないようですが、飛び出してきます。

 神様にも愛がありますが、男性的な神様が静かに一人でいる時には、その愛が現れません。これを現してみせることのできる相対が、正に人です。

3.神様の宇宙創造の動機は愛 の中からのみ言葉です。

神様と真の父母様に感謝します。
ありがとうございます。

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