統一思想より!
心情とは何か
心情は神の性相の最も核心となる部分であって、「愛を通じて喜ぼうとする情的な衝 動」である。
心情のそのような概念を正しく理解する助けとなるように、人間の場合を例として説明する。
人間は誰でも生まれながらにして喜びを追求する。喜ぼうとしない人は一人もいないであろう。人間は誰でも幸福を求めているが、それがまさにその証拠である。そのように人 間はいつも、喜びを得ようとする衝動、喜びたいという衝動をもって生きている。それにもかかわらず、今日まで大部分の人々が真の喜び、永遠の喜びを得ることができないでいることもまた事実である。
それは人間がたいてい、金銭や権力、地位や学識の中に喜びを探そうとするからである。それでは真の喜び、永遠な喜びはいかにして得られるであろうか、それは愛(真の愛)の生活を通じてのみ得られるのである。愛の生活とは、他人のために生きる愛他的な奉仕生活、すなわち他人に温情を施して喜ばせようとする生活をいう。
心情は情的衝動である
ここで「情的な衝動」について説明する。情的な衝動とは内部からわきあがる抑えがたい願望または欲望を意味する。普通の願望や欲望は意志で抑えることができるが、情的な衝動は人間の意志では抑えられないのである。
われわれは喜ぼうとする衝動(欲望)が抑えがたいということを、日常の体験を通じてよく知っている。人間が金をもうけよう、地位を得よう、学識を広めよう、権力を得ようとするのも喜ぼうとする衝動のためであり、子供たちが何事にも好奇心をもって熱心に学ぼうとするのも喜ぼうとする衝動のためであり、甚だしくは犯罪行為までも、方向が間違っているだけで、その動機はやはり喜ぼうとする衝動にあるのである。
そのように喜ぼうとする衝動(欲望)は抑えがたいものである。欲望は達成されてこそ満たされる。しかるに大部分の人間にとって、喜ぼうとする欲望が満たされないでいるのは、 喜びは愛を通じてしか得られないということが分かっていないからである。そして喜びが愛を通じてしか得られないのは、その喜びの根拠が神にあるからである。
神は心情である
神は心情すなわち愛を通じて喜ぼうとする情的な衝動をもっているが、そのような神の 衝動は人間の衝動とは比較にもならないほど抑えがたいものであった。人間は相似の法 則に従って、そのような神の心情を受け継いだので、たとえ堕落して愛を喪失したとして も、喜ぼうとする衝動はそのまま残っている。ゆえに、情的な衝動を抑えることは難しいのである。
ところで神において、喜ぼうとする情的な衝動は、愛そうとする衝動によって支えられて いる。真の喜びは真の愛を通じなければ得られないからである。したがって、愛そうとする衝動は喜ぼうとする衝動よりも強いのである。愛の衝動は愛さずにはいられない欲望 を意味する。そして愛さずにはいられないということは、愛の対象をもたずにはいられな いことを意味する。
そのような愛の衝動によって喜ぼうとする衝動が触発される。したがって愛の衝動が一 次的なものであり、喜びの衝動は二次的なものである。ゆえに愛は決して喜びのための 手段ではなく、ただ無条件的な衝動なのである。そして愛の必然的な結果が喜びである。 したがって愛と喜びは表裏の関係にあり、喜ぼうとする衝動も実は愛そうとする衝動が表 面化したものにすぎない。
ゆえに神の心情は、「限りなく愛そうとする情的な衝動」であるとも表現することができる。 愛には必ず対象が必要である。特に神の愛は抑えられない衝動であるから、その愛の 対象が絶対的に必要であった。したがって創造は必然的、不可避的であり、決して偶発的なものではなかった。